「――浮気の後には、石鹸を使っちゃいかんよ。以前、女房に香りでバレでしまってね。
いや、まいったよ……」
「それはうかつでしたね」
古来より武人は色を好むものだが、酒が入れば、まあどんな男も似たようなものだろう。
夜も更けて酒も進めば、自らの艶聞を披露したがる年配の御仁は、珍しくない。
「君もなかなかお盛んだそうじゃないか、なぁマスタング中佐。どうかね、イーストシティの女性は」
中央から訪れている、今は退役して軍需企業の顧問となっている男性は、若い後輩と飲むのが
何よりの楽しみらしく、もう良い具合にできあがってはいたが、ロイも、既に随分と遅くまで
付き合わされていた。
「誤解ですよ少将……みな面白可笑しく風聞を作って、噂しているだけです。
変わったこともこともあまりないこの辺境の街では、それも致し方ないことですが」
あくまでにこやかに、ロイは応えた。
退役したとはいえ、軍に対しては依然、それなりの影響力をもった爺さんだ。
精々、四半世紀前の色事の自慢話でも聞いてやれば、ご機嫌は取れる。
「そうか? それはいかんな、君はまだ独身だろう。
私が君くらいの頃には、愛人が両の手に余るほど……おっと、失礼失礼」
元少将の爺さんは、もう片隣にいた女性のことを思い出し、口を噤んだ。
「これは、女性の前で失礼なことを言ってしまったな……」
といっても、別に済まなそうな顔をするではなく、笑っていたが。
「いえ、どうぞお気になさらずに」
リザ・ホークアイ少尉は、いつもよりは柔らかな、けれどあまり感情を面に出さぬ様子で応えた。
男所帯の軍隊で、今更セクハラもなにもない。
気にしていたら仕事になりはしないから、それは本心だった。
そんな彼女の様子に、来訪者は嬉しそうに、
「そうかね? いや、でもやはり女性にしてみれば、男というのは浮気することばかり考えて、
ろくでもない生き物だと思うだろうね」
「いいえ――男性のそういった生理は、自然な理(ことわり)だと思っていますので。
仕方のないことでしょう」
「本当かね? 怒ったり、悔しいとか……ないのかね」
「ええ」
あまりにそっけない彼女の言葉に、相手はしばしポカンとしたが、次にテーブルの上から
グラスを取ると、ロイの方を向いて、
「聞いたかね中佐? いやー、素晴らしい女性じゃないか! ホークアイ少尉に乾杯!」
「はは……」
一応それに合わせて、ロイもグラスを取って重ねた。
「やれやれ……」
年の割にはお元気な客人を店の前から車で送り出し、ロイはやっと息をついた。
「相変わらず元気な爺さんだ。――すまなかったな、ホークアイ少尉。
君まで付き合わさせてしまって」
「いえ。お疲れ様でした」
もう夜も更けていたが、明日も勤務に変わりはない。
「……中佐?」
ふと、リザの耳元にロイが顔を寄せる。
何かと思ってちょっと首を向けると、丁度、目が合う。
「早く髪を洗った方が良いな。――煙草の匂いがついてしまった」
それが何を意味するのか。
それ以上の言葉は、何も必要なかった。
リザがシャワーを浴びて上がってくると、ロイはソファーに横に脚を伸ばして、
ウイスキーのグラスを傾けていた。
爺さんとも幾らか飲んだが、あれでは飲んだ気がしなかったのだろう。
それも無理からぬことだが。
「先にいただきました。……中佐、どうぞ」
バスローブをまとい、髪をタオルでぬぐいながら言った彼女に、ロイは視線を上げると、手をさしのべた。
“おいで”、というように。
「……何ですか?」
請われるまま歩み寄ると、手首を掴まれ、くいっと引かれる。
すとん、と彼女をソファーに座らせると、そのまま抱き寄せた。
「――合格」
耳元に鼻先を寄せると、小さく囁く。
煙草の薫りのことを言ったのだろう。
「はぁ……」
「君も、飲むか?」
「いいえ、私は結構です」
そうか、と呟くと、ロイは簡単に腕をほどき、彼女を解放した。
それがなんだか違和感を与えた。
何というのか……いつもすぐ仕掛けてくる悪戯が無いのが、不思議な気がした。
「明日も日勤だから、早く休んだ方が良い」
「ええ……」
リザは、自分が感じた違和感の正体を掴みきれないまま、立ち上がったロイの背中を見つめた。
まだ髪に残っていた雫が、ぽとり、と膝に落ちる。
二人の間に、決まり事は特にない。
いつどちらがどちらを訪れるのか。休みの日はどう過ごすか。
かといって不文律があるわけでもなく、それぞれに束縛のない日々を営み、そして時折、同じ夜を明かす。
安定・不安定という表現でくくることもできない、奇妙といえば、そんな関係。
それが当たり前で、特に疑問に思うこともないということは、それが二人にとっての「安定」なのかもしれない。
相手にとって、自分が一番の存在か――そんなことも、考えたこともない。
自分といない時間、彼が何処でどう過ごしているかなど。
「中佐――」
リザは、執務室のソファで書類をチェックしていたが、立ち上がると、ロイのいるデスクの方に歩み寄った。
「……ん?」
「どうなされたんですか」
正面のリザの視線の先、自分の手元を見下ろすと、ロイは溜息をついた。
書きかけの書類の上でペンが止まったまま。
大きなインクの染みができてしまっていた。
「やれやれ。書き直しだな」
ボーっとしていた、というのとも、何だか違う気がした。
――考え事?
「本当に、どうなされたんです。最近、ちょっとおかしいですよ」
「そうかな。結構マジメに仕事をしていると思っているんだが」
それは確かにそうだった。
ここ数日は、いつも手を焼くサボり癖もあまり目立たず、比較的まともに職務をこなしている。
それが却って不審がられるというのも、上官としてどうかと思われるが。
「――お茶でもお煎れしましょうか」
「ああ……お願いしようか」
彼女の方から気分転換を申し入れるなんて、希有なこと。
給湯室でお茶を煎れながら、リザは思った。
ロイも、まあサボり好きではあるが、真面目に働く時がないわけでもないから、
そんなに不審に思うことでもないだろう。
そう自分に呟いてはみたが、何か引っかかる。
これは、いつからの感じだったか。
なんと言うことはない、平和な数日間。
穏やかすぎるといえば穏やかすぎた。
事件はなく、上司はサボらず、余計なちょっかいも出してこない。
別に、彼が他の女性と時を過ごそうと、リザは嫉妬はしない。
仕事をサボるくせに早く帰りたがるのには腹立つけれど……。
お互い、他の異性と会うなといった要求は、口にしたこともないのだから。
考えたことすらなかった。
ごく日常的に、女子更衣室で何気なく聞こえてくる会話。
恋人への不満、憤り。願望や、恋の駆け引き。
彼女たちの気持ちが理解できないわけではないが、リザにとっては縁遠い感情だった。
そんな自分はおかしいのだろうか。
冷たい……女なのだろうか。
そんな風に、全く考えないわけではない。
あと一息でロイの勤務時間は終わる。
お茶を出した後も特に変わらず、彼は時折何か考えるように、手が止まっていた。
うわの空、というのとも違う。
そんな調子でも、職場逃亡を図らずに一日いたものだから、仕事は片づいた。
心底溜息をつきたくなりつつも、リザは書類の最終確認を続けた。
「ここの署名が抜けていますが……あとは大丈夫です」
「おや、失礼した」
隣に立ったリザが指さした箇所にサインを入れると、ロイは座ったまま彼女を見上げた。
「これで良いかな」
「ええ。いつもこのくらい真面目にしてくださると、非常に助かるのですが」
つい、思っていたことをそのまま口に出してしまう。
「じゃあ、今日はご褒美をもらえるのかな」
あっと思うと、彼女の細い腰に腕が回され、引き寄せられて、リザは倒れそうになり抱き留められる。
「中佐……!」
このところ悪戯心を起こす素振りを見せていなかったので、油断した。
だけど、やはり違う。
体の内に火を灯そうとするような、いつもの悪戯なキスではない。
何か、確かめるような――とても静かな交感。
「……中佐?」
そっと離れた唇に、却って戸惑う。
「君はまだ帰れないのだね」
「ええ……深夜で交代ですから」
まだ不安定な、倒れかかるのを抱きすくめられた格好。
そういえば、このところ触れられていなかったから、あんな口づけでも、妙に感じやすくなってしまった。
それが気まずい。
悟られぬよう、リザはデスクに手をついて、立ち上がった。
「お疲れ様でした。後のことはやっておきますから、もうお帰りになっても結構です」
何事もなかったかのように、デスクの上の書類をまとめる。